つ》として、曠野の静けさを破つてゐたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕へたのか、もう狐の後足を掴《つか》んで、倒《さかさま》に、鞍の側へ、ぶら下げてゐる。狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、漸《やうやく》、その傍へ馬を乗りつけた。
「これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館《やかた》へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今|俄《にはか》に客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時《みのとき》頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣《つか》はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」
云ひ畢《をは》ると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢《くさむら》の中へ、抛《はふ》り出した。
「いや、走るわ。走るわ。」
やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を拍《う》つて囃《はや》し立てた。落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野が緩《ゆる》い斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。
「広量《くわうりやう》の御使でござるのう。」
五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使《いし》する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――阿諛《あゆ》は、恐らく、かう云ふ時に、最《もつとも》自然に生れて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間《ほうかん》のやうな何物かを見出しても、それだけで妄《みだり》にこの男の人格を、疑ふ可きではない。
抛り出された狐は、なぞへ[#「なぞへ」に傍点]の斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
―――――――――――――――――
一行は、予定通り翌日の巳時《みのとき》ばかりに、高島の辺へ来た。此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋《わらや》が、疎《まばら》にちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》をよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。
「あれを御覧《ごらう》じろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」
見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩《かち》のもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞《そんきよ》して、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」
「生得《しやうとく》、変化《へんげ》ある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。」
五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等《らうどう》たちの待つてゐる所へ来た。「大儀ぢや。」と、利仁が声をかける。蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になつた。
「夜前、稀有《けう》な事が、ございましてな。」
二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色《ひはだいろ》の水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。「何ぢや。」利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝《ささえ》や破籠《わりご》を、五位にも勧めながら、鷹揚《おうやう》に問ひかけた。
「さればでございまする。夜前、戌時《いぬのとき》ばかりに、奥方が俄《にはか》に、人心地《ひとごこち》をお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝《ことづ》てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有《おつしや》るのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意《ぎよい》遊ばすのでございまする。」
「それは、又、稀有《けう》な事でござるのう。」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌《あひづち》を打つた。
「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「して、それから、如何《いかが》した。」
「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「如何でござるな。」郎等の話を聞き完《をは》ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。「利仁には、獣《けもの》も使はれ申すわ。」
「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、滴《しづく》になつて、くつついてゐる。
―――――――――――――――――
その日の夜の事である。五位は、利仁の館《やかた》の一間《ひとま》に、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、明《あか》してゐた。すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。殊に、雀色時《すずめいろどき》の靄《もや》の中を、やつと、この館へ辿《たど》りついて、長櫃《ながびつ》に起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂《ひたたれ》の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
直垂の下に利仁が貸してくれた、練色《ねりいろ》の衣《きぬ》の綿厚《わたあつ》なのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。枕元の蔀《しとみ》一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。万事が、京都の自分の曹司《ざうし》にゐた時と比べれば、雲泥の相違である。が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何か告《ふ》れてゐるらしい。その乾《ひ》からびた声が、霜に響くせゐか、凛々《りんりん》として凩《こがらし》のやうに、一語づつ五位の骨に、応へるやうな気さへする。
「この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時《うのとき》までに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各《おのおの》、一筋づつ、持つて参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにぢや。」
それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりは忽《たちま》ち元のやうに、静な冬の夜になつた。その静な中に、切燈台の油が鳴る。赤い真綿のやうな火が、ゆらゆらする。五位は欠伸《あくび》を一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量に耽《ふけ》り出した。――山の芋と云ふからには、勿論芋粥にする気で、持つて来させるのに相違ない。さう思ふと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れてゐた、さつきの不安が、何時の間にか、心に帰つて来る。殊に、前よりも、一層強くなつたのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――こんな考へが、「こまつぶり」のやうに、ぐるぐる一つ所を廻つてゐる中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐつすり、熟睡してしまつた。
翌朝、眼がさめると、直《すぐ》に、昨夜の山の芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋の蔀《しとみ》をあげて見た。すると、知らない中に、寝すごして、もう卯時《うのとき》をすぎてゐたのであらう。広庭へ敷いた、四五枚の長筵《ながむしろ》の上には、丸太のやうな物が、凡《およ》そ、二三千本、斜につき出した、檜皮葺《ひはだぶき》の軒先へつかへる程、山のやうに、積んである。見るとそれが、悉く、切口三寸、長さ五尺の途方もなく大きい、山の芋であつた。
五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い驚愕《きやうがく》に襲はれて、呆然《ばうぜん》と、周囲を見廻した。広庭の所々には、新しく打つたらしい杭の上に五斛納釜《ごくなふがま》を五つ六つ、かけ連ねて、白い布の襖《あを》を着た若い下司女《げすをんな》が、何十人となく、そのまはりに動いてゐる。火を焚きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白木の桶《をけ》に、「あまづらみせん」を汲んで釜の中へ入れるもの、皆芋粥をつくる準備で、眼のまはる程忙しい。釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残つてゐる明方の靄と一つになつて、広庭一面、はつきり物も見定められない程、灰色のものが罩《こ》めた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、眼に見るもの、耳に聞くもの悉く、戦場か火事場へでも行つたやうな騒ぎである。五位は、今更のやうに、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考へた。さうして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食慾は、実に、此時もう、一半を減却《げんきやく》してしまつたのである。
それから、一時間の後、五位は利仁や舅《しうと》の有仁《ありひと》と共に、朝飯の膳に向つた。前にあるのは、銀《しろがね》の
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