提《ひさげ》の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。五位はさつき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくつては入れ、すくつては入れするのを見た。最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛《あまづら》のにほひとを含んだ、幾道《いくだう》かの湯気の柱が、蓬々然《ほうほうぜん》として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。これを、目《ま》のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。――五位は、提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。
「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」
 舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。中にはどれも芋粥が、溢《あふ》れんばかりにはいつてゐる。五位は眼をつぶつて、唯でさへ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器《かはらけ》にすくつて、いやいやながら飲み干した。
「父も、さう申すぢやて。平《ひら》に、遠慮は御無用ぢや。」
 利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸ひやうがない。
「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。」
 五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。
「これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。」
 童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器《かはらけ》に汲まうとする。五位は、両手を蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。
「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」
 もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを御覧《ごらう》じろ」と云はなかつたなら、有仁は猶《なほ》、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。檜皮葺《ひはだぶき》の軒には、丁度、朝日がさしてゐる。さうして、そのまばゆい光に、光沢《つや》のいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。見るとそれは一昨日《をととひ》、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。
「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」
 利仁の命令は、言下《ごんか》に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与《あづか》つたのである。
 五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童《きやうわらべ》にさへ「何ぢや。この鼻赤めが」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫《さしぬき》をつけて、飼主のない尨犬《むくいぬ》のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位は慌てて、鼻をおさへると同時に銀《しろがね》の提に向つて大きな嚔《くさめ》をした。
[#地から2字上げ](大正五年八月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:吉田亜津美
1999年5月29日公開
2004年2月17日修正
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