もとわたしはあの人のように、風流人《ふうりゅうじん》じゃないんですというんだ。
「僕もその時は立入っても訊《き》かず、夫《それ》なり別れてしまったんだが、つい昨日《きのう》、――昨日は午《ひる》過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の最中《さいちゅう》に若槻《わかつき》から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の利《き》いた六畳の書斎に、相不変《あいかわらず》悠々と読書をしている。僕はこの通り野蛮人《やばんじん》だから、風流の何たるかは全然知らない。しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。まず床《とこ》の間《ま》にはいつ行っても、古い懸物《かけもの》が懸っている。花も始終絶やした事はない。書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。おまけに華奢《きゃしゃ》な机の側には、三味線《しゃみせん》も時々は出してあるんだ。その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の浮世絵《うきよえ》じみた、通人《つうじん》らしいなりをしている。昨日《きのう》も妙な着物を着ているから、それは何だねと訊《き》いて見ると、占城《チャンパ》[#ルビの「チャンパ」は底本では「チャンバ」]という物だと答えるじゃないか? 僕の友だち多しといえども、占城《チャンパ》なぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。――まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。
「僕はその日《ひ》膳《ぜん》を前に、若槻と献酬《けんしゅう》を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。小えんにはほかに男がある。それはまあ格別《かくべつ》驚かずとも好《よ》い。が、その相手は何かと思えば、浪花節語《なにわぶしかた》りの下《した》っ端《ぱ》なんだそうだ。君たちもこんな話を聞いたら、小えんの愚《ぐ》を哂《わら》わずにはいられないだろう。僕も実際その時には、苦笑《くしょう》さえ出来ないくらいだった。
「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。そのまた小えん自身にも、読み書きといわず芸事《げいごと》といわず、何でも好きな事を仕込ませていた。小えんは踊《おど》りも名を取っている。長唄《ながうた》も柳橋《やなぎばし》では
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