沼! 君の囲い者じゃないか?」
 藤井は額越《ひたいご》しに相手を見ると、にやりと酔《よ》った人の微笑を洩《も》らした。
「そうかも知れない。」
 飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。
「誰だい、その友だちというのは?」
「若槻《わかつき》という実業家だが、――この中でも誰か知っていはしないか? 慶応《けいおう》か何か卒業してから、今じゃ自分の銀行へ出ている、年配も我々と同じくらいの男だ。色の白い、優しい目をした、短い髭《ひげ》を生やしている、――そうさな、まあ一言《いちごん》にいえば、風流愛すべき好男子だろう。」
「若槻峯太郎《わかつきみねたろう》、俳号《はいごう》は青蓋《せいがい》じゃないか?」
 わたしは横合いから口を挟《はさ》んだ。その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日|前《まえ》、一しょに芝居を見ていたからである。
「そうだ。青蓋《せいがい》句集というのを出している、――あの男が小えんの檀那《だんな》なんだ。いや、二月《ふたつき》ほど前《まえ》までは檀那だったんだ。今じゃ全然手を切っているが、――」
「へええ、じゃあの若槻という人は、――」
「僕の中学時代の同窓なんだ。」
「これはいよいよ穏《おだや》かじゃない。」
 藤井はまた陽気な声を出した。
「君は我々が知らない間《あいだ》に、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳に攀《よ》じ、――」
「莫迦《ばか》をいえ。僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。蓄膿症《ちくのうしょう》か何かの手術だったが、――」
 和田は老酒《ラオチュ》をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。
「しかしあの女は面白いやつだ。」
「惚《ほ》れたかね?」
 木村は静かにひやかした。
「それはあるいは惚れたかも知れない。あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」
 和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁《ゆうべん》を振い出した。
「僕は藤井の話した通り、この間《あいだ》偶然小えんに遇った。所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか? なぜ別れたと訊《き》いて見ても、返事らしい返事は何もしない。ただ寂しそうに笑いながら、もと
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