指折りだそうだ。そのほか発句《ほっく》も出来るというし、千蔭流《ちかげりゅう》とかの仮名《かな》も上手だという。それも皆若槻のおかげなんだ。そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止《しょうし》に思う以上、呆《あき》れ返らざるを得ないじゃないか?
「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、――そういう希望を持っていたのです。それだけに今度はがっかりしました。何も男を拵《こしら》えるのなら、浪花節語りには限らないものを。あんなに芸事には身を入れていても、根性の卑《いや》しさは直らないかと思うと、実際|苦々《にがにが》しい気がするのです。………
「若槻《わかつき》はまたこうもいうんだ。あの女はこの半年《はんとし》ばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。それがまたなぜだと訊《たず》ねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色《けしき》さえありません。ただもうわたしは薄情だと、そればかり口惜《くや》しそうに繰返すのです。もっとも発作《ほっさ》さえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、………
「若槻はまたこうもいうんだ。何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。前に馴染《なじみ》だった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、大怪我《おおけが》をさせたというじゃありませんか? このほかにもまだあの男には、無理心中《むりしんじゅう》をしかけた事だの、師匠《ししょう》の娘と駈落《かけお》ちをした事だの、いろいろ悪い噂《うわさ》も聞いています。そんな男に引懸《ひっか》かるというのは一体どういう量見《りょうけん》なのでしょう。………
「僕は小《こ》えんの不しだらには、呆《あき》れ返らざるを得ないと云った。しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。なるほど若槻は檀那《だんな》としては、当世|稀《まれ》に見る通人かも知れない。が、あの
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング