一つの作が出来上るまで
――「枯野抄」――「奉教人の死」――
芥川龍之介
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)辿《たど》つて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年三月)
−−
或る一つの作品を書かうと思つて、それが色々の径路を辿《たど》つてから出来上がる場合と、直ぐ初めの計画通りに書き上がる場合とがある。例へば最初は土瓶《どびん》を書かうと思つてゐて、それが何時《いつ》の間《ま》にか鉄瓶に出来上がることもあり、又初めから土瓶を書かうと思ふと土瓶がそのまま出来上がることもある。その土瓶にしても蔓《つる》を籐《とう》にしようと思つてゐたのが竹になつたりすることもある。私《わたし》の作品の名を上げて言へば「羅生門《らしやうもん》」などはその前者であり、今ここに話さうと思ふ「枯野抄《かれのせう》」「奉教人《ほうけうにん》の死」などはその後者である。
その「枯野抄」といふ小説は、芭蕉翁《ばせををう》の臨終《りんじゆう》に会つた弟子《でし》達、其角《きかく》、去来《きよらい》、丈艸《ぢやうさう》などの心持を描《ゑが》いたものである。それを書く時は「花屋日記《はなやにつき》」といふ芭蕉の臨終を書いた本や、支考《しかう》だとか其角だとかいふ連中の書いた臨終記のやうなものを参考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前《まへ》から死ぬところまでを書いてみる考であつた。勿論、それを書くについては、先生の死に会ふ弟子《でし》の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた。その心持を私は芭蕉の弟子に借りて書かうとした。ところが、さういふ風にして一二枚書いてゐるうちに、沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏が丁度《ちやうど》それと同じやうな小説(?)を書いてゐるのを見ると、今迄《いままで》の計画で書く気がすつかりなくなつてしまつた。
そこで今度は、芭蕉の死骸を船に乗せて伏見《ふしみ》へ上ぼつて行《ゆ》くその途中にシインを取つて、そして、弟子達の心持を書かうとした。それが当時(大正七年の九月)の「新小説」に出る筈になつてゐたのであつたが、初めの計画が変つたので、締切が近づいてもどうしても書けなかつた。原稿紙ばかり無駄《むだ》にしてゐる間《あひだ》に締切の期日がつい来てしまつて甚だ心細い気がした。その時の「新
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング