まゐり》。此所《ここ》を通りけるに、池の中より『もしもし』と呼びかくる。誰ならんと立ちどまれば、いぜんの女池の中よりによつと出で、『男と見かけ頼み申し度き事あり』と云はせもはてず、狐狸《こり》のしわざか、人にこそより目にもの見せんと腕まくりして立ちかかれば、『いやいやさやうの者にあらず。我は今西村《いまにしむら》の兵右衛門《へいゑもん》に奉公致すものなるが、しかじかのことにてむなしく成る。あまりになさけなきしかたゆへ、怨《うら》みをなさんと一念此身をはなれず今宵《こよひ》かの家にゆかんと思へど主《あるじ》つねづね観音を信じ、門戸《もんこ》に二月堂《にぐわつだう》の牛王《ごわう》を押し置きけるゆゑ、死霊《しりやう》の近づくことかなはず(中略)牛王をとりのけたまはらば、生々世々《しやうじやうせぜ》御恩《ごおん》』と、世にくるしげにたのみける。
「かのもの不敵《ふてき》のものなれば(中略)そのところををしへたまへ。のぞみをかなへまゐらせんと、あとにつきていそぎゆく。ほどなく兵右衛門が宅になれば、女の指図《さしづ》にまかせ、何かはしらず守り札ひきまくり捨てければ、女はよろこび戸をひらき、家へ入るよと見えしが臥《ふ》してゐたる女房ののどにくひつき、難なくいのちをとりて、おもてをさして逃げ出でける。(中略)
「女走りいでゝ(中略)此上ながらとてものことにいづくへなりと連れてゆきたまはれと、背につきはなれぬうち、家内《かない》にわかにさわぎ立ち、やれ何者のしわざなるぞ、提灯《ちやうちん》松明《たいまつ》と、上を下へとかへすにぞ、以前の男も心ならず足にまかせて逃げゆきしが、思はずもわが家にかへり、(中略)ひとり住みの身なれば、誰れとがむるものもなけれど、幽霊を連れかへりそゞろに気味わるく、『のふ/\のぞみはかなひし上は、いづかたへもゆきたまへ、(中略)』と、心のうちに念仏をとなへけるこそをかしけれ。
「幽霊もしばしはさしうつむきてゐたりしが、(中略)怨《うら》めしと思ふかたきをかみころし、一念散ずるときは泉下《めいど》へもゆくべきに、いまだ此土《このど》にとどまることのふしんさよと心をつけて見るに、さして常にかはることもなし。(中略)それより一つ二つとはなし合ふに、いよ/\幽霊にあらざるにきはまりける。(中略)男も定まる妻もなければと、つひ談合《だんがふ》なりてそこを立ちのき、大阪
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