ノを買う金などはないはずですからね。
主筆 ですがね、堀川さん。
保吉 しかし活動写真館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄には幸福だったのです。達雄はこの間の震災以来、巡査になっているのですよ。護憲運動《ごけんうんどう》のあった時などは善良なる東京市民のために袋叩《ふくろだた》きにされているのですよ。ただ山の手の巡回中、稀《まれ》にピアノの音《ね》でもすると、その家の外に佇《たたず》んだまま、はかない幸福を夢みているのですよ。
主筆 それじゃ折角《せっかく》の小説は……
保吉 まあ、お聞きなさい。妙子はその間も漢口《ハンカオ》の住いに不相変《あいかわらず》達雄を思っているのです。いや漢口《ハンカオ》ばかりじゃありません。外交官の夫の転任する度に、上海《シャンハイ》だの北京《ペキン》だの天津《テンシン》だのへ一時の住いを移しながら、不相変《あいかわらず》達雄を思っているのです。勿論もう震災の頃には大勢《おおぜい》の子もちになっているのですよ。ええと、――年児《としご》に双児《ふたご》を生んだものですから、四人の子もちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲
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