燈さえつけば、必ず西洋間へ顔を出すのです。それも夫のいる時ならばまだしも苦労はないのですが、妙子のひとり留守《るす》をしている時にもやはり顔を出すのでしょう。妙子はやむを得ずそう云う時にはピアノばかり弾《ひ》かせるのです。もっとも夫のいる時でも、達雄はたいていピアノの前へ坐らないことはないのですが。
 主筆 そのうちに恋愛に陥るのですか?
 保吉 いや、容易に陥らないのです。しかしある二月の晩、達雄は急にシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」を弾きはじめるのです。あの流れる炎《ほのお》のように情熱の籠《こも》った歌ですね。妙子は大きい椰子《やし》の葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色《こんじき》の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕《かいな》の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかったところへ幸い主人が帰って来るのです。
 主筆 それから?
 保吉 それから一週間ばかりたった後《のち》、妙子はとうとう苦しさに堪え兼ね、自殺をしようと決
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