せって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺《うかが》って歩いた。敵打の初太刀《しょだち》は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親《しゅうおや》をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目《めんぼく》が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。
 松山へ来てから二月《ふたつき》余り後《のち》、左近はその甲斐《かい》があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠《しのびかご》につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇《あ》った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠《かご》の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌《かおかたち》は瀬沼兵衛に紛《まぎ》れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退《の》いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行《ゆ》く方《え》をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗《なのり》をかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟《とっさ》に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編
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