りつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技《ぎ》を売っている、松木蘭袋《まつきらんたい》と云う医者を呼びにやった。
 蘭袋は向井霊蘭《むかいれいらん》の門に学んだ、神方《しんぽう》の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌《ごうけつはだ》の所もあって、日夜|杯《さかずき》に親みながらさらに黄白《こうはく》を意としなかった。「天雲《あまぐも》の上をかけるも谷水をわたるも鶴《つる》のつとめなりけり」――こう自《みずか》ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上《かみ》は一藩の老職から、下《しも》は露命も繋《つな》ぎ難い乞食《こじき》非人《ひにん》にまで及んでいた。
 蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病《りびょう》と云う見立てを下《くだ》した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒《なお》らなかった。喜三郎は看病の傍《かたわら》、ひたすら諸々《もろもろ》の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮《に》る煙を嗅《か》ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
 秋は益《ますます》深くなった。喜三郎は蘭袋の家
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