うち》に、江戸を立って雲州《うんしゅう》松江《まつえ》へ赴《おもむ》こうとしている事なぞも、ちらりと小耳《こみみ》に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔《らんすい》した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥《おびただ》しく血を吐いた。
求馬は翌日から枕についた。が、何故《なぜ》か敵《かたき》の行方《ゆくえ》が略《ほぼ》わかった事は、一言《ひとこと》も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞《そでご》いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日|葺屋町《ふきやちょう》の芝居小屋などを徘徊《はいかい》して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣《くわ》えたまま、もう火のはいった行燈《あんどう》の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天《ぎょうてん》しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃《じじん》の仔細《しさい》とが認《したた》めてあった。「私儀《わたくしぎ》柔弱《にゅう
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