で行つた。雨は可也《かなり》烈しかつた。彼は水沫《しぶき》の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相変《あひかはらず》鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄《すさ》まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。
九 死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を剥《は》ぎはじめた。皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。
彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏《あんず》の匂に近い死体の臭気は不快だつた。彼の友だちは眉間《みけん》をひそめ、静かにメスを動かして行つた。
「
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