この頃は死体も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己《おれ》は死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。
十 先生
彼は大きい※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かし》の木の下に先生の本を読んでゐた。※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤《はかり》が一つ、丁度平衡を保つてゐる。――彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……
十一 夜明け
夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に群《むらが》つた人々や車はいづれも薔薇《ばら》色に染まり出した。
彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
市場のまん中には篠懸《すずかけ》が一本、四方へ枝をひろげてゐた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高
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