。」
 彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空《あ》き罎《びん》の破片を植ゑた煉瓦塀《れんぐわべい》の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔《こけ》をまだらにぼんやりと白《し》らませてゐた。

     三 家

 彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩《ゆる》い為に妙に傾いた二階だつた。
 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

     四 東京

 隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸《ぼろ》のやうに憂欝だつた。が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

     五 我

 彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子《テエブル》に向ひ、絶えず巻煙草
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