結婚する。」
 彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に嵌《は》めこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。冷えびえと、何か脅《おびやか》すやうに。……

     四十 問答

 なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
 資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
 悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
 ――彼はかう天使と問答した。尤《もつと》も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……

     四十一 病

 彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性|肋膜炎《ろくまくえん》、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……
 しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
 或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を啣《くは》へたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。彼はその音楽の了《をは》るのを待ち、蓄音
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