わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
[#ここで字下げ終わり]

     三十八 復讐

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
 狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
 少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、媚《こ》びるやうに彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
 彼は黙つて目を反《そ》らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣《わけ》ではなかつた。……

     三十九 鏡

 彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは焼林檎《やきりんご》を食ひ、この頃の寒さの話などをした。彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月
前へ 次へ
全30ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング