た。そこへ幌《ほろ》をかけた人力車が一台、まつ直《すぐ》に向うから近づいて来た。しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。
「美人ですね。」
彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」
二十八 殺人
田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何《いか》にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。
すると黄ばんだ麦の向うに羅馬《ロオマ》カトリツク教の伽藍《がらん》が一宇《いちう》、いつの間にか円屋根《まるやね》を現し出した。……
二十九 形
それは鉄の銚子だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」の美を教へられてゐた。
三
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