十 雨

 彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。浜木棉《はまゆふ》の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顔は不相変《あひかはらず》月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這《はらば》ひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
 彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは未《いま》だに愛してゐる。」

     三十一 大地震

 それはどこか熟し切つた杏《あんず》の匂に近いものだつた。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。が、死骸の重なり重《かさな》つた池の前に立つて見ると、「酸鼻《さんび》」と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折《
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