をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
 彼の先輩は頬杖《ほほづゑ》をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我《が》」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又|歓《よろこ》びも感じた。
 そのカツフエは極《ごく》小さかつた。しかしパンの神の額《がく》の下には赭《あか》い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

     六 病

 彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利《イギリス》語の辞書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。
 Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。
 Tale 話。
 Talipot 東印度に産する椰子《やし》。幹は五十|呎《フイート》より百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。七十年に一度花を開く。……
 彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉《のど》もとに今までに知らない痒《かゆ》さを感じ、思はず辞書の上へ啖《たん》を落した。啖を?――しかしそれは啖ではなかつた。彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向うに高だかと聳《そび》えてゐる椰子の花を。

     七 画

 彼は突然、――それは実際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。
 この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頬の膨《ふく》らみに絶え間ない注意を配り出した。
 或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。
 ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歳の彼の心の中には耳を切つた和蘭《オランダ》人が一人、長いパイプを啣《くは》へたまま、この憂欝な風景画の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……

     八 火花

 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏ん
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