いちぎやう》のボオドレエルにも若《し》かない。」
 彼は暫《しばら》く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

     二  母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を弾《ひ》きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳《は》ねまはつてゐた。
 彼は血色の善《い》い医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。
「ぢや行かうか?」
 医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい硝子《ガラス》の壼の中に脳髄が幾つも漬《つか》つてゐた。彼は或脳髄の上にかすかに白いものを発見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴《た》らしたのに近いものだつた。彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。
「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」
 彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空《あ》き罎《びん》の破片を植ゑた煉瓦塀《れんぐわべい》の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔《こけ》をまだらにぼんやりと白《し》らませてゐた。

     三 家

 彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩《ゆる》い為に妙に傾いた二階だつた。
 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

     四 東京

 隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸《ぼろ》のやうに憂欝だつた。が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

     五 我

 彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子《テエブル》に向ひ、絶えず巻煙草
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