で行つた。雨は可也《かなり》烈しかつた。彼は水沫《しぶき》の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変《あひかはらず》鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄《すさ》まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

     九 死体

 死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を剥《は》ぎはじめた。皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。
 彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏《あんず》の匂に近い死体の臭気は不快だつた。彼の友だちは眉間《みけん》をひそめ、静かにメスを動かして行つた。
「この頃は死体も不足してね。」
 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己《おれ》は死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

     十 先生

 彼は大きい※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かし》の木の下に先生の本を読んでゐた。※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤《はかり》が一つ、丁度平衡を保つてゐる。――彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……

     十一 夜明け

 夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に群《むらが》つた人々や車はいづれも薔薇《ばら》色に染まり出した。
 彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
 市場のまん中には篠懸《すずかけ》が一本、四方へ枝をひろげてゐた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高
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