》はあの姫君《ひめぎみ》を堕落させようと思ひました。が、それと同時に、堕落させたくないとも思ひました。あの清らかな魂《たましひ》を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢《けが》す気がするでせう。私はその魂をいやが上にも清らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、さうと思へば思ふ程、愈《いよいよ》堕落させたいと云ふ心もちもして来ます。その二つの心もちの間《あひだ》に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂《う》き目に遇《あ》ふ事は逃《のが》れてゐた事でせう。私たちは何時《いつ》でもさうなのです。堕落させたくないもの程、益《ますます》堕落させたいのです。これ程不思議な悲しさが又と外《ほか》にありませうか。私はこの悲しさを味《あじは》ふ度に、昔見た天国の朗《ほがらか》な光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな気がします。どうかさう云ふ私を憐んで下さい。私は寂しくつて仕方がありません。」
美しい顔をした悪魔は、かう云つて、涙を流した。……
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