た奴の恐れに乗じて、女王を抱いたまま、人通りの無い側路《わきみち》へ逃げこんだ。路はまつ暗でしんとしてゐる。夜の静けさが地をつつんでゐるのである。逃げて来た二人は、偶然其跡を追つて来た女や酔どれの罵る声が暗の中に消えてゆくのを聞いた。間もなく聞えるのは唯血の滴る音ばかりになつた。血はバルタザアルの額からバルキスの胸に滴るのである。
『わたくしはあなたを愛して居りますわ』とつぶやくやうに女王が云つた。
雲を洩れる月の光で王は女王の半ば閉ぢた眼が水々しく、白くかがやいてゐるのを見た。二人は小川の水のない河床を、下つて行くのである。不意にバルタザアルが苔に足を滑らせた。緊く抱きあつたまま、二人は地に仆れた。永遠に歓楽の淵に沈んで行くやうな気がする。世界も二人の恋人には何処かへ行つて仕舞つた。夜があけて石間の窪地へ羚羊が水をのみに来た時にも、二人はまだ時間を忘れ、空間を忘れ、別々の体を持つて生れた事を忘れて、温柔の夢に耽つてゐたのである。
其時に通りがかりの盗人の一隊が、苔の上に寝てゐる恋人を見つけた。そして『奴等は金はないが、いい価に売れるぜ。若くつて、面がいいからな』と云つた。
そこ
前へ
次へ
全24ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング