ノ驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態《しな》を作つて、首をもたげる。すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟《ひだえり》がをのゝくやうに動くのである。
彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨《ビロード》の袍を着てゐた。其|黄鼬《てん》の毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。手は|曙の女神《オーロラ》の指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。
凡て是等の事柄を一つ/\わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛《うぶげ》でも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛《まつげ》のゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。
そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見《かいまみ》る事が出来たのである。人生は忽ち全
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