@あゝ、ヨブが「軽忽《きやうこつ》なる者は、眼を以て聖約を為さざる者なり」と云つたのは、真理である。わしは不図、其時迄下を向いてゐた頭を挙げて、わしの前にゐる女を見た。女はわしが触れる事が出来るかと思はれる程、近くにゐる――が実際は、わしから可成離れて、内陣のずつと向うの欄干の辺《あたり》にゐたのである――年も若く、容貌《きりやう》も驚くばかり美しい。そして立派な着物迄着てゐる。丁度、其時わしはわしの眼から、急に鱗が落ちたやうな気がした。わしは、思ひがけなく明を得た盲人のやうな心持になつたのである。一瞬間以前には、光彩に溢れてゐた僧正も、急に何処かへ行つてしまへば、金色の燭架の上の蝋燭も、暁の星のやうに青ざめて、わしには無限の闇黒が、全寺院を領したやうに思はれた。そして其美しい女は、其闇黒を背景に燦爛とした浮彫になつて、丁度天使の来迎を仰ぐやうに、わしの眼の前に現れて来た。彼女は、自ら輝いてゐるやうに、しかも光を受けてゐると云ふよりは、自ら光を放つてゐるやうに見えたのである。
わしは眼を閉ぢた。そして二度と再び眼をあけまいと決心した。わしは外界の事物の影響を蒙るのを恐れてゐた。それは
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