B
「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。「お前のする事はわしには少しもわからない。お前は――何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和《おとな》しい――お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。気をつけるがよい。兄弟よ――悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。悪魔は、お前が永久に身を主《しゆ》に捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々《しばしば》このやうな誘惑を受けるものぢや。祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自《おのづか》ら離れるだらう。」
 セラピオンの語は、わしを平常《ふだん》のわしに帰してくれた。そして少しはわ
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