竄、しんしゆ》」の畳句《でふく》を唄ひ連《つ》れて歩むのも見える、――それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛《つら》い対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。そこで手荒く窓を鎖《とざ》して床の上に荒々しく身を横へた。わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長《アベ》、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。そして両手で顔を蔽つた
前へ
次へ
全68ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング