オの気も鎮《しづま》つて来た。彼は又かう云ふのである、「わしは、お前がC――の牧師補を授けられた事を知らせに来たのぢや。其処を管理してゐた僧侶が死んだので、僧正は直にお前を任命するやうにわしにお命令《いひつけ》なすつた。それだから、明日立てるやうに準備をするがよい。」わしは頭を垂れて之に答へた。そして僧院長《アベ》はわしの部屋を出て行つた。わしは祈祷の書を開いて、祈りの句を読み始めた。が、字が霞んで何の事が書いてあるのだか解らない。わしの頭脳の中では、観念の糸が無暗にもつれ出して、遂にはわしの気が附かぬ内に祈祷の書はわしの手から落ちてしまつた。
 明日、彼女に二度と逢はずに立つて仕舞ふと云ふ事、わしと彼女との間に置いてある多くの障碍物に、更に新しい障碍物を加へると云ふ事、実に奇蹟による外は、彼女に逢ふ一切の望を失つてしまふと云ふ事! あゝ彼女に手紙を書くと云ふ事さへわしには不可能になるだらう。何故と云へば、わしは誰にわしの手紙を託《ことづ》けると云ふ事も出来ないからである。わしは僧侶と云ふ神聖な職務に就きながら誰にわしの心の中を打明ける事が出来るだらう。誰に信用を置く事が出来るだらう。

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