トゐる事だ。云はゞ君の着物が、君の亡骸《なきがら》を納めた柩の棺布《かけぎぬ》の役に立つのである。
わしは今更のやうにわしの生命が、丁度地下の湖のやうに、拡がりつゝ溢れつゝ水嵩を増して来るのを感ずる。わしの血は烈しくわしの動脈をめぐつて躍り上る。わしの久しく抑圧してゐた青春は、千年に一度花の咲く蘆薈のやうに、生々と萌え出でて迅雷の響と共に花を開くのだ。
クラリモンドに、再び逢ふ為にわしは何をする事が出来るのだらう。わしは市にゐる人を一人も知らない。それでどうして研究室を去る口実が得られよう。わしは暫くでも此処に止つてゐられさうもない。唯、待ち遠いのは、わしが今後就任すべき牧師補の辞令ばかりである。わしは窓《まど》の鉄格子を取去らうと試みた。けれども窓は地を離れる事が遠いので、梯子が無ければ、かうして逃げるなどと云ふ事を考へるだけ愚だと気がついた、其上、わしが夜に乗じて其処から逃げる事が出来たとしても、其後どうして錯雑した街路の迷宮を、わしの思ふ所へ辿り着く事が出来るだらう。多くの人々には全く無意味に思はれる是等の凡ての事が、昨日始めて恋に落ちた、経験も無く、金も無く、美しい着物も無
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