齧レ見たばかりにわしの性質は一変してしまつたのである。彼女は己の意志をわしの生命の中に吹き込んだ。そしてわしはもうわし自身の肉体の中に生活しないで、彼女の肉体の中に、しかも彼女の為に生活するやうになつた。わしはわしの手の、彼女の触れた所を接吻した。わしは何時間も続けさまに、彼女の名を繰返して呼んで見た。何時でも眼さへ閉ぢればわしには彼女の姿が其処にゐるやうにはつきりと見えるのである。わしは彼女が教会の玄関で、わしの耳に囁いた語を反覆した。「不仕合せな方ね、不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」わしは遂に、わしの現状の恐しさを、判然と理解する事が出来た。わしの今、就いた職務の恐る可き厳粛な制限が、明かにわしの前に暴露された。僧侶になる!――それは独身でゐると云ふ事だ。決して恋をしないと云ふ事だ。性《セックス》とか年齢とかの区別を構はなくなる事だ。凡ての美から背き去る事だ。眼を抉りぬいてしまふ事だ。永久に寺院とか僧院とかの冷い影の中に蹲つて隠れてゐる事だ。見知らない屍体に番をされてゐる事だ。死にかゝつてゐる人間ばかり訪ねて行く事だ。そして己自身の死を悼む喪服として、何時でも黒い法衣を着
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