痰「僧侶の注意が一寸他に向いてゐる隙を見て、空想的な衣裳を着た、黒人の扈従《こしやう》がわしの側《そば》へやつて来た。そして歩きながら、わしの手に小さな金縁の手帳を忍ばせると同時に、それを隠せと云ふ相図をした。わしはそれを袖の中に隠した。そしてわしの部屋へ帰つて独りになるまで、そこにしまつて置いた。それからわしは其|控金《とめがね》を開いた。中には紙が二枚はひつてゐる。其紙にはかう書いてあつた。「クラリモンド・コンチニの宮にて」当時わしは、世間の事に疎かつたので、クラリモンドの名さへ、有名だつたのにも関らず、耳にした事は一度も無かつた。そして又コンチニの宮が何処にあるかと云ふ事も、一向に分らなかつた。そこでわしは何度となく推量を逞くして見た。そして推量を重ねる度に想像は益々方外になつたが、実際、わしは唯もう一度、彼女に逢へさへするならば、彼女が貴夫人であらうと、娼婦であらうと、それは大して構ひもしなかつたのである。
 わしの恋は、僅一時間程経つ内に、抜き難い根を下ろして了つた。わしは其恋を思切らうなどとは夢にも思はなかつた。わしには其様な事は、全然不可能だとしか信じられなかつた。彼女が
前へ 次へ
全68ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング