オて彼女の眼の声は、恰も生きた唇がわしの生命の中に声を吹き込んだやうに、わしの心臓の奥迄も反響した。わしはわし自らが神を捨てようとしてゐるのを感じた。が、わしの舌は猶機械的に式の凡ての形式を満したので、わしはわしの胸が聖母の剣よりも鋭い刃に貫かれるやうな気がせずにはゐられなかつた。
凡ての事が円満に終を告げた。わしは遂に憎侶となつた。
此時、彼女の顔に現れた程、人間の顔に深く苦痛が描かれた事はない。婚約をした恋人が突然、己の傍に仆れて死んだのを見た少女、歿《なく》なつた子供の揺籃に倚懸つてゐる母親、楽園の門の閾《しきゐ》に立てゐるエヴ、宝は盗まれて其跡に石の置いてあるのを見た吝嗇な男、偶然其最も傑れた作の原稿を火の中に取落した詩人――是等の人々もかう迄絶望した、かう迄慰め難い顔附《かほつ》きをする事はないであらう。血と云ふ血は彼女の愛らしい顔を去つて、それが今は大理石よりも白くなつてゐる。彼女の美しい両腕は、恰も其筋肉が急に弛緩したかのやうに、力なく両脇に垂れてゐた。彼女は身を支へる柱を求めた。それは殆ど手足が彼女の自由にならなくなつてゐたからである。そしてわしも亦、教会の戸口の方
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