トしまつた。
 もう疑の余地はない。僧院長《アベ》セラピオンが正しかつたのである。が、此積極的な知識があるにも拘らず、わしはクラリモンドを愛するのを禁ずる事が出来なかつた。そして喜んで其人工の生命を与へるに足る丈の血潮を、自ら進んで与へようと思つた。加之《しかのみならず》、わしは殆ど彼女を怖しく思はなかつた。わしはわしの血を一滴づつ取引《とりひき》するよりも、わしの腕の血管を自ら剖《さ》いて、彼女にかう云つてやりたかつた。「お飲み、さうしてわしの愛をわしの血潮と一しよに、お前の体《からだ》に滲透《しみとほ》らせておくれ。」わしは、彼女がわしに拵へてくれた魔酔の酒の事や、あの留針の出来事には、気をつけて一言もそれに及ばないやうにした。そしてわし達は最も円満な調和を楽しんでゆく事が出来たのである。
 けれ共、わしの沙門らしい優柔は、常よりも一層、わしを苛《さいな》み始めた。そしてわしは、わしの肉を苦しめ制する為に、何か新しい贖罪を発明するのさへ、想像するに苦しむやうになつた。是等の幻は無意志的なもので、わしは実際それに関する何事にも与らなかつたがそれでも猶、わしは事実にせよ夢幻にせよ、此様な淫楽に汚れた心と不浄な手とを以てしては、到底基督の体に触れる事が出来なかつた。わしは此懶い幻惑の力に圧へられるのを免れようとして、先づ眠に陥るのを防がうと努力した。そこでわしは指で瞼を開いてゐたり、数時間も真直に壁に倚り懸《かかつ》てゐたりして、全力を振つて眠と戦つて見たのである。けれ共睡魔は絶えずわしの眼を襲つて、凡ての抵抗が無駄になつたと思ふと、わしは極度の疲労に堪へずして、両腕を力なく下げたまゝ、再び睡の潮流に楽慾の彼岸に運ばれて了ふ。セラピオンは、峻烈を極めた訓戒を加へて、厳しくわしの意気地の無いのと、勇猛心の不足なのとを責めたが、遂に或日、わしが平素より一層心を苦しめてゐると、わしにかう云つてくれた。「此不断の呵責《かしやく》を免れることの出来るのは、唯、一策がある許りぢや。尤も非常に出た策だと云ふ嫌はあるが役には立つに相違ない。難病は劇薬を要すると云ふものぢや。わしはクラリモンドの埋められた処を知つてゐるし、それにはあの女の屍《しかばね》を発《あば》いて、お前の恋する女がどのやうな憐な姿になつてゐるかを見なければならぬ。さうすればお前も、蛆に食はれた、塵になるばかりの屍の為に、霊魂を失ふやうな迷には陥らぬやうにならう。此策は必ずお前を救ふに相違ないて。」わしは此二重生活に困憊してゐたので、貴公子か僧侶かどちらが幻惑の犠牲だかを確め度いばかりに直に之を快諾した。わしは全くわしの心の中にゐる二人の男の一人を、もう一人の利益の為に殺すか、又は二人共殺すか、どちらか一つにする決心でゐた。それは此様な怖しい存在は続けられる事も、堪へられる事も出来なかつたからである。そこで僧院長《アベ》セラピオンは鶴嘴と挺《てこ》と角燈とを整へて、わし達二人は真夜中に場所も位置も彼のよく知つてゐる――の墓地へ出かけたのであつた。暗い角燈の光を五六の墓石の碑銘に向けた後に、わし達は遂に、半大きな雑草に掩はれて、其上又苔と寄生植物とに侵された大きな板石の前に出た。そして其上に、わし達は下のやうな墓碑銘の首句を探り読む事が出来たのである。
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女性《によしやう》の中の最も美しき女性として
生ける日に誉ありし
クラリモンドこそ此処《ここ》に眠れ
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「確に此処ぢや。」とセラピオンが呟いた。そして角燈を地上に置くと、石の端の下へ挺《てこ》の先を押入れて、其石を擡げ始めた。石が自由になると彼は更に寄生植物を取除《とりの》けにかゝつた。わしは夜よりも暗く、夜よりも更に語《ことば》なく、傍に立つて、ぢつと彼のする事を見戍つた。其間に彼は其凄惨な労働に腰をかゞめて、汗にぬれながら喘いでゐる。わしには彼の苦しさうに吐く息が、末期の痰のつまる音のやうな調子を持つてゐるかと疑はれた。それは真に幽怪な光景であつた。外から誰でもわし達を見る人があつたなら、其人はわし達を神の僧侶と思ふよりは寧ろ涜神の痴者《しれもの》が経帷子《きやうかたびら》を盗む者と思つたに相違ない。セラピオンの熱心には、執拗な酷烈な何物かがあつて、それが彼に天使とか使徒とか云ふものよりも却つて邪鬼の形相を与へてゐた。其大きな、鷲のやうな顔は、角燈の光で、鋭い浮彫りを刻んでゐる。峻厳な目鼻立ちと共に、不快な空想を誘ふやうな、恐る可き何物かを有してゐるのである。わしは氷のやうな汗が大きな粒になつてわしの顔に湧いて来たのを感じた。わしの髪は恐しい畏怖の為によだつてゐる。わしの心の底では、辛辣なセラピオンの行が、憎むべき神聖冒涜の如く感じてゐる。わしは、頭上に油然と流れてゐる黒雲の内臓
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