ゥら、火の三戟刑具《トリアングル》が迸り出でて、彼を焦土とするやうに祈祷しようかとさへ思つてゐた。糸杉《シイプレイ》に宿つてゐた梟は、角燈の光に驚いて、時々それに飛んで来る。しかも其度に灰色の翼で角燈の硝子を打つては悲しい慟哭の叫び声を揚げるのである。野狐は遠い闇の中に鳴き、数千の不吉な物の響は、沈黙の中から自《おのづか》ら生れて来る。遂にセラピオンの鶴嘴は、柩を打つた。其板に触れた響は、深い高い音を、打たれた時に「無」が発する戦慄すべき音を、陰々と反響した。それから彼は柩の蓋を捩《ね》ぢはなした。わしは其時クラリモンドが大理石像のやうに青白く、両手を組んでゐるのを見た。彼女の白い経帷子は、頭から足迄たゞ一つの襞《ひだ》を造つてゐる。しかも彼女の色褪せた唇の一角には、露の滴つたやうに、小さな真紅の滴がきらめいてゐるのである。之を見ると、セラピオンの怒気は心頭に上つた。「あゝ、此処に居つたな、悪魔めが、不浄な売婦《ばいた》めが、黄金《きん》と血とを吸ふ奴めが。」彼は聖水を屍と柩の上に注ぎかけて、其上に水刷毛《みずはけ》で十字を切つた。憐む可きクラリモンドは、聖水がかゝると共に、美しい肉体も忽ち塵土《ちりひぢ》となつて、唯、形もない、恐しい灰燼の一塊と、半ば爛壊《らんゑ》した腐骨の一堆とが残つた。
「お前の情人を見るがよい、ロミュアル卿。」決然として僧院長《アベ》は此悲しい残骸を指さしながら、叫んだ。「是でもお前は、お前の恋人と一しよに、リドオやフシナを散歩しようと云ふ気になるかの。」わしは、無限の破滅がわしにふりかゝつた様に、両手で顔を隠した。わしはわしの牧師館へ帰つた。クラリモンドの恋人ロミュアル卿も、今は長い間不思議な交際を続けてゐた、憐れな僧侶から離れてしまつたのである。が、唯一度、其次の夜にわしはクラリモンドに逢つた。彼女は、教会の玄関で始めてわしに逢つた時にさう云つたやうに「不仕合せな方ね、何をなすつた?」と云ふのである。「何故、あの愚かな牧師の云ふ事をおきゝなすつたの? 仕合せぢやなかつて? 私が貴方に何か悪い事をして? それだのに貴方は私の墓を発《あば》いて、私の何もないみじめさを人目にお曝しなすつたのね。私たちの、霊魂と肉体との交通はもう永久に破られてしまつたのよ。さやうなら。それでも貴方は屹度私をお惜みになるわ。」彼女は煙のやうに空中に消えた。そしてわしは二度と彼女に会つた事はない。
あゝ、彼女の言《ことば》は正しかつた。わしは一度ならず彼女を惜んだ。いや今も彼女を惜んでゐる。わしの霊魂の平和は、高い代価を払つて始めて贖ふ事が出来たのである。神の愛は彼女のやうな愛を償《つぐな》つて余りある程大きなものではない。兄弟よ、之がわしの若い時の話なのだ。忘れても女の顔は見ぬがいゝ。そして外へ出る時には、何時でも視線を地におとして歩くがいゝ。何故と云へば、如何に信心ぶかい、慎みぶかい人間でも、一瞬間の誤が、永遠を失はせるのは容易だからである。
底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店
1995(平成7)年11月8日発行
底本の親本:「クレオパトラの一夜」新潮社
1921(大正10)年4月17日発行
初出:「クレオパトラの一夜」新潮文庫、新潮社
1914(大正3)年10月16日発行
※初出及び底本の親本では、久米正雄訳として発表された。
※著者名は、底本では「〔The'ophile Gautier〕」と表記されている。
入力:もりみつじゅんじ
校正:土屋隆
2009年1月8日作成
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