ノに苛《さいな》まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期《まつご》の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。
或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直《すぐ》側《そば》に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。それはわしが一分でも彼女の側《そば》を離れたくないと思つたからである。で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――丁度猿か猫のやうに軽快に――わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手《めきゝじやうず》が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。顔はつや/\と肉附いて、手も温かにしめつてゐる――常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。
「私もう死なないわ、死なないわ。」悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。「私はまだ長い間貴方を愛してあげる事が出来てよ。私の命は貴方の有《もの》だわ。私の中にある物は皆、貴方から来たのだわ。貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。その血の滴のおかげで私は命を取返したのだわ。」
此光景は長い間、わしの記憶に上つて来た。そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長《アベ》セラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽足りなくて、肉体をも失はうとするのかの。見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」彼のかう云つた調子は、強くわしを動かした。が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。そして寝床の上に上つてわしの傍に横になつた。彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。
「一|滴《しづく》、たつた一滴、私の針の先へ紅宝玉《ルビイ》をたつた一滴……貴方はまだ私を愛してゐるのですから、私はまだ死なれません……あゝ可哀さうに、私は美しい血を、まつ赤な血を飲まなければならないのね、お休《やす》みなさい、私のたつた一の宝物、お眠みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようと思つてはゐなくつてよ。私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまはない丈の物を頂くのだわ。私は貴方を愛してゐるのでせう、だから私は外に恋人を拵へて、其人の血管を吸ひ干す事にした方がいゝのだわ。けれど貴方を知つてから、私、外の男は皆厭になつてしまつたのですもの……まあ美しい腕ね、何と云ふ円いのだらう、何と云ふ白いのだらう、どうして私は此様な青い血管を傷ける事が出来るのだらう。」かう呟き乍ら、彼女はさめ/″\と涙を流した。其時わしは、彼女がわしの腕を執りながら、其上に落す涙を感じたのであつた。遂に彼女は意を決して、其留針で一寸わしを刺した。そして其処から滴る血を吸ひ始めた。彼女はほんの五六滴しか飲まなかつたが、わしの眼を醒ますのを怖れたので、丁寧に小さな布でわしの腕を括つてくれた。それから後で又傷を膏薬でこすつてくれたので、傷は直に癒つ
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