ハ夜の間に嗅ぎなれた不快な屍体の匂の代りに、ものうい東洋の香料の匂が――わしは艶《なまめ》いた女の匂がどんなものだか知らないのである――柔に生温い空気の中に漂つてゐる。青ざめた光は屍体の傍に黄色く瞬く通夜の蝋燭の代りと云ふよりは、寧ろ淫惑な歓楽の為にわざと作られた薄明りの如く思はれる。わしは、クラリモンドが永久にわしから失はれた瞬間に再び彼女を見る事が出来た、不思議な運命をつくづくと考へて見た。そして、残り惜しい懊悩の吐息がわしの胸を洩れて出た。其時、わしにはわしの後で誰かが亦吐息をしたやうに思はれた。で、振返つて見たがそれは、唯反響にすぎなかつた。けれ共、其刹那に、わしの眼は其時迄見るのを避けてゐた死者の寝床の上に落ちた。刺繍の大きな花で飾られた、赤いダマスコの帳《とばり》が、黄金の房にくゝられて、うつくしい屍骸を見せてくれるのである。屍体は長々と横になつて、手を胸の上に合せてゐる、眩ゆいやうな白いリンネルの褻衣《したぎ》に掩はれたのも、掛衣《かけぎぬ》の陰鬱な紫と、著しい対照を作つて、しかも地合《ぢあひ》のしなやかさが、彼女の肉体のやさしい形を何一つ隠す所もなく、見る人の眼を、美しい輪廓の曲線に従はしめる――白鳥の首の如くになよやかな――其輪廓の持つてゐる豊麗な、優しさは「死」すらも奪ふ事が出来なかつたのである。彼女はさながら或巧妙な彫刻家が女王の墳墓の上に据ゑる為に造り上げた雪花石膏の像か、或は又恐らくは、眠つてゐる少女の上に声もない雪が一点の汚れもない掛衣《かけぎぬ》を織りでもしたかの如く思はれた。
 わしはもう、力めて祈祷の態度を支へてゐる事が出来なくなつた。閨房の空気はわしを酔はせ、半ば凋んだ薔薇の花の熱を病んだやうな匂はわしの頭脳に滲み込んだ。わしは休みなく彼方此方と歩きながら、歩を転ずる毎に、屍体をのせた寝床の前に佇んで、其透いて見えさうな経帷子の下に、横はつてゐる優しい屍《しかばね》の事を、何と云ふ事もなく想ひはじめた、わしの頭脳には、熱した空想が徂徠して来たのである。わしは彼女が恐らく、本当に死んだのではあるまいと思つた。唯わしを此城へ呼び寄せて、其恋を打明ける為に、わざと死を装つてゐるのだと思つた。そしてわしは、同時に彼女の足が、白い掛衣《かけぎぬ》の下で動いて、少しく捲いてある経帷子の長い真直な線を乱したとさへ思つた。
 それからわしはかう自問した。「これが本当にクラリモンドであらうか、之が彼女だと云ふ何んな証拠があるだらうか。あの黒人の扈従は外の貴夫人に傭はれたのではないだらうか。この様に独りで苦しがつてゐては、屹度わしは気が狂ふのに相違ない。」けれども、わしの心臓ははげしく動悸を打ちながら、かう答へる。
「之が彼女だ。確に彼女だ。」わしは再び寝台に近づいた。そして再び注意して、疑はしい屍体を凝視した。あゝ、わしは之も白状しなければならないであらうか。其すぐれた肉体の形の完全さは、「死」の影で浄められてゐるとは云へ、常よりも更に淫惑な感じを起さしめた。そして又、其安息が何人も「死」とは思はぬほど、眠りによく似てゐるのである。わしは、此処へ葬儀を勤めに来たと云ふ事も忘れてしまつた。いや寧ろ花嫁の閨へはひつた花婿だと想像した。花嫁はしとやかに、美しい顔を隠して、羞しさに姿を残る隈なく掩はうとしてゐるのである。わしは胸も裂けむ許りの悲しみを抱きながら、しかも物狂はしい希望にそゝられて、恐怖と快楽とにをのゝきながら、彼女の上に身をかゞめて、経帷子の端に手をかけた。そして、彼女の眠を醒ますまいと息をひそめながら其経帷子を上げて見た。わしの動悸は狂ほしく鼓動して蟀谷《こめかみ》のあたりには蛇の声に似た音が聞えるかとさへ疑はれる。汗が額から滝の如く滴るのも、丁度わしが大きな大理石の板を擡げでもしたやうに思はれるのである。そして其処には実にクラリモンドが横はつてゐた。わしの得度《とくど》の日に見たのと寸分も違ひなく横はつてゐた。彼女の姿は其時と変りなく美しい。「死」も彼女にとつては、最後の嬌態に過ぎないのである。青ざめた頬、やゝ色の褪せた唇の肉色、其白い皮膚に黒い房をうき出させる長い睫毛、其等の物が皆彼女に悲しい貞淑と内心の苦痛との云ふ可らざる妖艶な容子を与へてゐる。未だ小さな青い花で編んである長い乱れ髪は、彼女の頭にまばゆい枕を造つて、其房々した巻き毛は、裸身《はだかみ》の肩を掩つてゐる。聖麺麭よりも清く、浄らかな美しい手は組合せたまゝ、清浄な安息と無言の祈祷とを捧げるやうに、胸の上にのつてゐる。未だ真珠の腕輪も外さない、裸身《はだかみ》の腕が象牙のやうにつや/\と、円《まど》かな肉附きを見せてゐる艶めかしさに――死後さへも猶――之のみが、反抗の意を示してゐるのである。わしは長い間、無言の黙想に沈んでゐた。すると、
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