ゥてゐれば見てゐる程、わしには、「生」がこの美しい肉体を永久に去つたと云ふ事が信じられなくなつて来た。所が燈火《ともしび》の光の反射かそれはわしにも解らないが、(彼女はぢつと動かずにはゐるけれど)其命の無い青ざめた皮膚の下では、再び血液の循環が始つたやうに思はれた。わしは軽くわしの手を、彼女の腕の上に置いて見た。勿論それは冷かつた。が、あの寺院の玄関で、わしの手に触れた時よりも冷たくはないのである。わしは再び彼女の上にうつむいて、温かな涙の露に彼女の頬を沾した。あゝ、わしはぢつと彼女を見守りながら、如何なる絶望、自棄の苦悶に、如何なる不言の懊悩に堪へなければならなかつたであらう。わしは徒にわしの生命を一塊の物質に集めてそれを彼女に与へたいと思つた。そして彼女の冷かな肉体に、わしを苛《さいな》む情火を吹き入れたいと思つた。が夜は次第に更けて行つた。わしは永別の瞬間が近づくのを感じながらも、猶わが唯一の恋人なる彼女の唇に、接吻を印してゆく最後の悲しい快楽を、棄てる事が出来なかつた……と奇蹟なるかな、かすかな呼吸はわしの呼吸に交つて、クラリモンドの口は、わしの熱情に溢れた接吻に応じたのである。彼女の眼は開いて、先きの日の輝きを示してくれる。しかも長い吐息をついて、組んでゐた腕をほどくと、溢るゝばかりの悦びを顔に現して、わしの頸を抱きながら「あゝ貴方ね、ロミュアル。」と呟いてくれる。竪琴の最後の響のやうな、懶い美しい声である。「何が悲しいの。余り長い間貴方を待つてゐたから死んだのだわ。けれど私たちはもう結婚の約束をしたのだわね。もう貴方に会ひにも行かれるわ。左様なら。ロミュアル、左様なら。私は貴方に恋をしてゐるのよ。私の話したい事はそれだけなの。貴方の接吻で一寸の間かへつて来た命を、貴方に返してあげませうね。また直《ぢき》にお目にかゝつてよ。」
彼女の頭は垂れた。腕は猶、わしを引止めるやうに、わしを抱いてゐる。其時凄じい旋風が急に窓を打つて、室の中へはいつた。すると白薔薇の最後の一葩《ひとひら》は暫く茎の先で、胡蝶の羽の如くふるへてゐたが、それから茎を離れて、クラリモンドの魂をのせたまゝ、明けはなした窓から外へ翻つて行つてしまつた。と、燈火が消えた。そしてわしは、美しい死人の胸の上へ気を失つて倒れてしまつたのである。
正気に帰つて見ると、わしは牧師館の小さな室の中にある寝台の上へ横になつてゐた。先住の老犬が、夜着の外へ垂れたわしの手を舐めてゐる。バルバラは老年と不安とでふるへながら、抽斗《ひきだし》をあけたりしめたり、杯の中へ粉薬を入れたりして、忙しく室の中を歩きまはつてゐる。が、わしが眼を開いたのを見ると彼女が喜びの叫を上げれば、犬も吠え立てゝ尾を掉つた。けれどもわしは未だ疲れてゐたので、一口もきく事も出来なければ、身を動かす事も出来なかつた。其後はわしは、わしが微かな呼吸の外は生きてゐる様子もなく、此儘で三日間寝てゐたと云ふ事を知つた。其三日間はわしは殆ど何事も記憶してゐない。バルバラは、わしが牧師館を出た夜に訪《たづ》ねて来たのと同じ銅色《あかがねいろ》の顔の男が、次の朝、戸をしめた輿にのせてわしを連れて来て、それから直ぐに行つてしまつたと云ふ事を聞いた。わしがきれ/″\な考を思合せる事が出来るやうになつた時に、わしは其恐しい夜の凡ての出来事を心の中に思ひ浮べた。わしは初め或魔術的な幻惑の犠牲になつたのだと思つたが、間も無く夫《そ》れでも真実な適確な事実とする事の出来る他の事情を思出したので、此考を許す事も出来なくなつて来た。わしは夢を見てゐたのだとは信じられない。何故と云へばバルバラもわしと同じやうに、二頭の黒馬をつれた見知らぬ男を見て、其男の形なり風采なりを、正確に細かい所迄述べる事が出来たからである。其癖、わしがクラリモンドに再会した城の様子に合ふやうな城の、此近所にある事を知つてゐる者も一人も無い。
或朝、わしはわしの室で僧院長《アベ》セラピオンに会つた。バルバラもわしの病気だと云ふ事を告げたので、急いで見舞に来てくれたのである。急いで来てくれたのは、彼から云へばわしに対する愛情ある興味を証拠立てゝゐるのであるが、其訪問は、当然わしの感ずべき愉快さへも与へてくれなかつた。僧院長《アベ》セラピオンはその凝視の中に、何処となく洞察を恣《ほしいまま》にするやうな、審問をしてゐるやうな様子を備へてゐるので、わしは非常に間《ま》が悪かつた。彼と対《むか》ひあつてゐる丈でも、わしは当惑と有罪の感じを去る事が出来ないのである。一目見て彼は、わしの心中の苦痛を察したのに違ひない。わしは実に此洞察力の為に彼を憎んだのであつた。
彼は偽善者のやうな優しい調子でわしの健康を尋ねながら、絶えず其獅子のやうな黄色い大きな眼をわしの上に注い
前へ
次へ
全17ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング