オの気も鎮《しづま》つて来た。彼は又かう云ふのである、「わしは、お前がC――の牧師補を授けられた事を知らせに来たのぢや。其処を管理してゐた僧侶が死んだので、僧正は直にお前を任命するやうにわしにお命令《いひつけ》なすつた。それだから、明日立てるやうに準備をするがよい。」わしは頭を垂れて之に答へた。そして僧院長《アベ》はわしの部屋を出て行つた。わしは祈祷の書を開いて、祈りの句を読み始めた。が、字が霞んで何の事が書いてあるのだか解らない。わしの頭脳の中では、観念の糸が無暗にもつれ出して、遂にはわしの気が附かぬ内に祈祷の書はわしの手から落ちてしまつた。
 明日、彼女に二度と逢はずに立つて仕舞ふと云ふ事、わしと彼女との間に置いてある多くの障碍物に、更に新しい障碍物を加へると云ふ事、実に奇蹟による外は、彼女に逢ふ一切の望を失つてしまふと云ふ事! あゝ彼女に手紙を書くと云ふ事さへわしには不可能になるだらう。何故と云へば、わしは誰にわしの手紙を託《ことづ》けると云ふ事も出来ないからである。わしは僧侶と云ふ神聖な職務に就きながら誰にわしの心の中を打明ける事が出来るだらう。誰に信用を置く事が出来るだらう。
 其時急にわしは、僧院長《アベ》セラピオンが悪魔の謀略《たくみ》を話した語を思出した。今度の事件の不可思議な性質、クラリモンドの人間以上の美しさ、彼女の眼の燐のやうな光、彼女の手の燃え立つばかりの感触、彼女がわしを陥し入れた苦痛、わしの心に急激な変化が起ると共に、凡てのわしの信心が一瞬の間に消えた事――是等の事は、其悪魔の仕業《しわざ》なのをよく証拠立てゝゐるではないか。恐らく繻子のやうな手は爪を隠した手袋であるかも知れぬ。是等の想像に悸《おどろか》されてわしは、再びわしの膝からすべつて、床の上に落ちてゐた祈祷の書を取り上げた。そして再び祈祷に身を捧げようとしたのである。
 翌朝セラピオンはわしを伴れに来た。みすぼらしいわし達の鞄を負つて、騾馬《らば》が二頭、門口に待つてゐる。彼は一頭の騾馬に乗り、わしは他の一頭に跨つた。
 わし達が此|市《まち》の街路を過ぎて行つた時に、わしは、クラリモンドが見えはしないかと思つて、凡ての窓、凡ての露台を注意して眺めて行つた。が、朝が早いので、市《まち》はまだ殆ど其眼を開かずにゐた。わしはわし達が通りすぎる、凡ての家々の簾や窓掛を透視する事が出来た
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