竄、しんしゆ》」の畳句《でふく》を唄ひ連《つ》れて歩むのも見える、――それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛《つら》い対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。そこで手荒く窓を鎖《とざ》して床の上に荒々しく身を横へた。わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長《アベ》、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。そして両手で顔を蔽つた。
「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。「お前のする事はわしには少しもわからない。お前は――何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和《おとな》しい――お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。気をつけるがよい。兄弟よ――悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。悪魔は、お前が永久に身を主《しゆ》に捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々《しばしば》このやうな誘惑を受けるものぢや。祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自《おのづか》ら離れるだらう。」
 セラピオンの語は、わしを平常《ふだん》のわしに帰してくれた。そして少しはわ
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