轤ホと思つた。セラピオンは、わしの此好奇心を確に、わしが建築を賞讃してゐるのだと思つたらしい。かう云ふのは彼が、わしにあたりを見る時間を与へる為に、わざと騾馬の歩みを緩めたからである。遂にわし達は市門を過ぎて其向うにある小山を上りはじめた。其頂に着いた時である。わしはクラリモンドが住んでゐる土地の最後の一瞥を得ようと思つたので、その方に頭をめぐらして眺めると、大きな雲の影が、全市街の上に垂れかゝつて、其青と赤と反映する屋根の色が、一様な其中間の色に沈んでゐた。其色の中を、其処此処から白い水沫《みなわ》のやうに、今し方点ぜられた火の煙が上へ/\と昇つて行く。と、不思議な光の関係で、まだ模糊とした蒸気に掩はれてゐる近所の建物よりは遥に高い家が一つ、太陽の寂しい光線で金色《こんじき》に染められながら、うつくしく輝いて聳えてゐる――実際は一里半も離れてゐるのであるが、其割には近く見える。そして其建築の細い点迄が明に弁別される――多くの小さな塔や高台や窓枠や燕の尾の形をしてゐる風見迄が、はつきりと見えるのである。
「向うに見える、あの日の光をうけた宮殿は何でせう。」とわしはセラピオンに尋ねた。彼は眼に手をかざして、わしの指さす方を眺めた。と其答はかうであつた。
「コンチニの王が、娼婦クラリモンドに与へた、古の宮殿ぢや。あそこで怖しい事をしてゐるさうな。」
 其刹那に、わしには実際か幻惑かはしらぬが、真白な姿の露台を歩いてゐるのが見えたやうに想はれた。其姿は通りすがりに、瞬く間日に輝いたが、忽ち又何処かへ消えてしまつた。それがクラリモンドだつたのである。おゝ、彼女は知つてゐたであらうか。其時、熱を病んだやうに慌しく――わしを彼女から引離してしまふ嶮しい山路の上に、あゝ、わしが再び下る事の出来ない山路の上に、彼女の住んでゐる宮殿を望見してゐたと云ふ事を。此|主《あるじ》となつて、此処に来れとわしを招くやうに、嘲笑ふ日の光に輝きながら、此方へ近づくかと思はれた宮殿を、望見してゐたと云ふ事を。疑も無く彼女はそれを知つてゐた。何故と云へば彼女の心は、わしの心と同情に繋がれてゐたので、其最も微かな情緒の時めきさへ感ずる事が出来たからである。其鋭い同情があればこそ、彼女は――寝衣を着てはゐたけれども――露台の上に登つてくれたのである。
 影は其宮殿をも掩つて、満目の光景は、唯屋根と破風との
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