た晩である。僕はカルメンに扮《ふん》するはずのイイナ・ブルスカアヤに夢中になっていた。イイナは目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女である。僕は勿論カルメンに扮《ふん》するイイナを観《み》ることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。水色の目をした、鼻の高い、何《なん》とか云う貧相《ひんそう》な女優である。僕はT君と同じボックスにタキシイドの胸を並べながら、落胆《らくたん》しない訣《わけ》には行かなかった。
「カルメンは僕等のイイナじゃないね。」
「イイナは今夜は休みだそうだ。その原因がまた頗《すこぶ》るロマンティックでね。――」
「どうしたんだ?」
「何《なん》とか云う旧帝国の侯爵《こうしゃく》が一人、イイナのあとを追っかけて来てね、おととい東京へ着いたんだそうだ。ところがイイナはいつのまにか亜米利加《アメリカ》人の商人の世話になっている。そいつを見た侯爵は絶望したんだね、ゆうべホテルの自分の部屋で首を縊《くく》って死んじまったんだそうだ。」
僕はこの話を聞いているうちに、ある場景《じょうけい》を思い出した。それは夜《よ》の更《ふ》けた
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