イズムと云ふ語の意味次第
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私《わたし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幾分|新潮《しんてう》記者なりの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正七年五月)
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 イズムを持つ必要があるかどうか。かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、私《わたし》は生憎《あいにく》この問題に大分《だいぶ》関係のありさうな岩野泡鳴《いはのはうめい》氏の論文なるものを読んでゐません。だからそれに対する私の答も、幾分|新潮《しんてう》記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。
 実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでも曲《ま》げられさうです。又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。
 それを差当《さしあた》り、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そん
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