な必要はありません。と云ふよりも寧《むしろ》それは出来ない相談だと思ひます。元来さう云ふイズムなるものは、便宜上|後《のち》になつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それで蔽《おほは》れる訳《わけ》はないでせう。全部が蔽《おほは》れなければそれを肩書にする必要はありますまい。(尤《もつと》もそれが全部でなくとも或|著《いちじる》しい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムの貼札《はりふだ》をつけられたのを許容《きよよう》する場合はありませう。又許容しない事がよろしくない場合もありませう。これは何時《いつ》か生田長江《いくたちやうかう》氏が、論じた事があつたと思ひますが。)
又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。
又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。
唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共|便宜《べ
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