ひました。と同時に不思議な香《かう》の匂《にほひ》が、町の敷石にも滲《し》みる程、どこからか静に漂つて来ました。

       四

 その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻《しきり》に呪文《じゆもん》を唱へてゐました。書物は香炉《かうろ》の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせてゐるのです。
 婆さんの前には心配さうな恵蓮《ゑれん》が、――いや、支那服を着せられた妙子《たへこ》が、ぢつと椅子に坐つてゐました。さつき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはひつたであらうか? あの時往来にゐた人影は、確に遠藤さんだと思つたが、もしや人違ひではなかつたであらうか?――さう思ふと妙子は、ゐても立つてもゐられないやうな気がして来ます。しかし今うつかりそんな気《け》ぶりが、婆さんの眼にでも止まつたが最後、この恐しい魔法使ひの家から、逃げ出さうといふ計略は、すぐに見破られてしまふでせう。ですから妙子は一生懸命に、震へる両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移つたやうに、見せかける時の近づくのを今か今かと待つてゐま
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