お聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだからね、そのつもりでゐるんだよ。」
 女の子はまつ黒な婆さんの顔へ、悲しさうな眼を挙げました。
「今夜ですか?」
「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちやいけないよ。」
 印度人の婆さんは、脅《おど》すやうに指を挙げました。
「又お前がこの間のやうに、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺さうと思へば、雛《ひよ》つ仔《こ》の頸《くび》を絞めるより――」
 かう言ひかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓側《まどぎは》に行つて、丁度明いてゐた硝子窓《ガラスまど》から、寂しい往来を眺めてゐるのです。
「何を見てゐるんだえ?」
 恵蓮は愈《いよいよ》色を失つて、もう一度婆さんの顔を見上げました。
「よし、よし、さう私を莫迦《ばか》にするんなら、まだお前は痛い目に会ひ足りないんだらう。」
 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあつた箒《はうき》をふり上げました。
 丁度その途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。

       二

 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかつた、年の若い一人の日本人があります。それがどう思つたのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気《あつけ》にとられたやうに、ぼんやり立ちすくんでしまひました。
 そこへ又通りかかつたのは、年をとつた支那人の人力車夫です。
「おい。おい。あの二階に誰が住んでゐるか、お前は知つてゐないかね?」
 日本人はその人力車夫へ、いきなりかう問ひかけました。支那人は楫棒《かぢぼう》を握つた儘、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいふ印度人の婆さんが住んでゐます。」と、気味悪さうに返事をすると、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》行きさうにするのです。
「まあ、待つてくれ。さうしてその婆さんは、何を商売にしてゐるんだ?」
「占《うらな》ひ者《しや》です。が、この近所の噂《うはさ》ぢや、何でも魔法さへ使ふさうです。まあ、命が大事だつたら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いやうですよ。」
 支那人の車夫が行つてしまつてから、日本人は腕を組んで、何か考へてゐるやうでしたが、やがて決心でもついたのか、さつさとそ�
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