事の来たのは八百通。
 翌年バアトンは英国に帰つて着々と事を進めてゐると、八百の予約はとうとう二千に殖《ふ》えた。中には「差当り第一巻を見本として送られ度《たく》、気に入り候はば引続いて願上候」といふ素見客《ひやかしきやく》もあつた。
 之に送つたバアトンの返事は、「先づ十ギニイ送金|有之度《これありたく》、その上にて一冊御申込になるとも全十冊御申込になるとも御《ご》勝手に候」と。其れから取次業者連中は、安く踏倒《ふみたふ》さうと思つて種々|画策《くわくさく》をやつた。又、本を受取つても金を払はない連中も廿人位あつた。
 バアトンは最初から取次業者を眼中に置かず、危険を冒《をか》して自分で刊行しようと企てたのである。知名の文学者なり又文学団体の協賛《けふさん》を希望したけれども、誰れ一人《ひとり》応じなかつた。バアトンの計画を嘲笑《てうせう》した「印刷タイムス」の如きもあつた。「バ氏の此の事業に関係して居る筈の某々の氏名が訳本に載《の》つて居らぬ。印刷者の手落ちならば正に罰金を課すべきである。又「一千一夜物語」の完訳は風俗上許し難い。縦令《たと》ひ私版《しはん》であるとしても、公衆道徳
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