リチヤアド・バアトン訳「一千一夜物語」に就いて
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一千一夜《いつせんいちや》物語

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大体|下《しも》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Franc,ois Vilon〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     一

 リチヤアド・バアトン(Richard Burton)の訳した「一千一夜《いつせんいちや》物語」――アラビヤン・ナイツは、今日《こんにち》まで出てゐる英訳中で先づ一番完全に近いものであるとせられてゐる。勿論、バアトン以前に出た訳本も数《かず》あつて、一々挙げる遑《いとま》も無い程《ほど》であるが、先づ「一千一夜物語」を欧羅巴《ヨオロツパ》に紹介した最初の訳本は一七〇四年に出たアントアン・ガラン(Antoine Galland)教授の仏訳本である。これは勿論完訳ではない。ただ甚だ愛誦するに足る抄訳本と云ふ位のものである。ガラン以後にも手近い所でフオスタア(Foster)だとかブツセイ(Bussey)だとかいろいろ訳本の無い訣《わけ》ではない。併し何《いづ》れも訳語や文体は仏蘭西《フランス》臭味を漂《ただよ》はせた、まづ少年読物と云ふ水準を越えないものばかりである。
 ガラン教授から一世紀の後《のち》――即ち一八〇〇年以後の主《おも》なる訳者を列挙して見ると、大体|下《しも》の通りである。
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1. Dr. Jonathan Scott. (1800)
2. Edward Wortley. (1811)
3. Henry Torrens. (1838)
4. Edward William Lane. (1839)
5. John Pane. (1885)
[#ここで字下げ終わり]
 トレンズの訳本は、在来のもののやうに英仏臭味を帯びないもので、其の点では一歩を進めたものであるが、訳者が十分原語に通暁《つうげう》してゐなかつたし、殊に埃及《エヂプト》やシリヤの方言《はうげん》などを全く知らなかつた為に、憾《うら》むらくは所期の点に達し得なかつた。而も十分の一位で中絶して居るのは、甚だ惜むべきことである。
 レエンの訳本――日本へは最も広く流布《るふ》してゐる。殊にボオン(Bohn)叢書の二巻ものは、本郷《ほんがう》や神田《かんだ》の古本屋《ふるほんや》でよく見受けられる――は底本《ていほん》としたバラク(Bulak)版が元々省略の多いものであり、其の上に二百ある話の中から半分の百だけを訳出したもので、随《したが》つて残りの百話の中に却《かへ》つて面白いものが有ると云ふやうな訣《わけ》で、お上品に出来過ぎて了《しま》つて、応接間向きの趣向《しゆかう》は好《よ》いとしても、慊《あきた》らないこと夥《おびただ》しい。お負けに、レエンは一夜一夜《いちやいちや》を章別にした上に、或章は註の中《うち》に追入れて了《しま》つたり、詩を散文に訳出したり又は全然捨てて了つたりして居るし、児戯《じぎ》に類する誤訳も甚だ多いと云ふ次第。
 次にペエン――フランソア・ヴイヨン(〔Franc,ois Vilon〕)の詩を英訳した――の「一千一夜物語」の訳は、旧来のものに比べると格段に優《すぐ》れてゐる。話の数《かず》もガラン訳の四倍あり其の他のものの三倍はあるが、手の届かぬ所が無いでもない。しかし兎《と》も角《かく》好訳であるが、私版を五百部刊行しただけで、遂に稀覯書《きこうしよ》の中《うち》に這入《はひ》つて了《しま》つた。ただ一つ特記すべきことは、巻頭にバアトンへの献詞《けんし》が附いてゐることである。
 バアトンの訳本も、一千部の限定出版で、容易に手に入り難《がた》い。出版当時十ポンドであつたものが、今日《こんにち》では三十ポンド内外の市価を唱《とな》へられてゐるのは、「一千一夜物語」愛好者の為に聊《いささ》か気の毒である。尤も此のバアトン訳の剽竊版《へうせつばん》(Pirate Edition)が亜米利加《アメリカ》で幾つも出来てゐるが、中身は何《ど》うだらうか。
 バアトンの訳本の表題は左の通り。
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A PLAIN AND LITERAL TRANSLATION OF THE ARABIAN NIGHTS ENTERTAINMENTS, NOW ENTITLED THE BOOK OF THE THOUSAND NIGHTS AND A NIGHT 
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