事の来たのは八百通。
翌年バアトンは英国に帰つて着々と事を進めてゐると、八百の予約はとうとう二千に殖《ふ》えた。中には「差当り第一巻を見本として送られ度《たく》、気に入り候はば引続いて願上候」といふ素見客《ひやかしきやく》もあつた。
之に送つたバアトンの返事は、「先づ十ギニイ送金|有之度《これありたく》、その上にて一冊御申込になるとも全十冊御申込になるとも御《ご》勝手に候」と。其れから取次業者連中は、安く踏倒《ふみたふ》さうと思つて種々|画策《くわくさく》をやつた。又、本を受取つても金を払はない連中も廿人位あつた。
バアトンは最初から取次業者を眼中に置かず、危険を冒《をか》して自分で刊行しようと企てたのである。知名の文学者なり又文学団体の協賛《けふさん》を希望したけれども、誰れ一人《ひとり》応じなかつた。バアトンの計画を嘲笑《てうせう》した「印刷タイムス」の如きもあつた。「バ氏の此の事業に関係して居る筈の某々の氏名が訳本に載《の》つて居らぬ。印刷者の手落ちならば正に罰金を課すべきである。又「一千一夜物語」の完訳は風俗上許し難い。縦令《たと》ひ私版《しはん》であるとしても、公衆道徳を傷《きずつ》ける虞《おそれ》ある以上はバ氏に罰金を課するが至当だ」と云ふやうな調子であつた。バアトンは此の挑戦《てうせん》に応じて「出版者は著者自身である。斯かる類《たぐひ》の書を出版業者の手に移すことは不快の至りで、著者自身の手に依つて、東洋語学者並びに考古学者の為に出版するのである」と発表した。
三
バアトンの「一千一夜《いつせんいちや》物語」十七巻の中、七巻は補遺《ほゐ》である。その第十巻の終りに Terminal Essay が附いてゐて、此の物語の起源、亜剌比亜《アラビア》[#「亜剌比亜」は底本では「亜刺比亜」]の風俗《ふうぞく》、欧羅巴《ヨオロツパ》に於ける訳本等が精《くは》しく討究《たうきう》されてゐる。殊《こと》に亜剌比亜並びに東方諸国の風俗に関する論文は、学術上の貴い研究資料であると共に、専門家ならぬ者にも頗《すこぶ》る興趣あるものである。
バアトンは本文《ほんもん》を、一話一話に分けないで、原文通り一夜一夜《いちやいちや》に別けてゐる。又、韻文《ゐんぶん》は散文とせずに韻文に訳出してゐる。之を以て観《み》てもバアトンが如何《いか》に原文に忠実であつたかは推察出来ると思ふ。
例へば、亜剌比亜《アラビア》人の形容を其儘《そのまま》翻訳して居るのに非常に面白いものがある。男女の抱擁《はうよう》を「釦《ボタン》が釦の孔《あな》に嵌まるやうに一緒《いつしよ》になつた」と叙《じよ》してある如き其の一つである。又、バクダッドの宮室庭園を写した文章の如きは、微《び》に入り細《さい》を穿《うが》つて居《を》つて、光景見るが如きものがある。第三十六夜(第二巻)の話にある Harunal−Rashid の庭園の描写などは其の好例《かうれい》である。
バアトンは又|基督《キリスト》教的道徳に煩《わづら》はされずして、大胆率直《だいたんそつちよく》に東洋的享楽主義を是認《ぜにん》した人で、随《したが》つて其の訳本も在来の英訳「一千一夜物語」とは甚だ趣《おもむき》を異《こと》にしてゐる。例へば、第二百十五夜(第三巻)に Budur 女王の歌ふ詩に次の如きものがある。
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The penis smooth and round was made with anus best to match it,
Had it been made for cunnus' sake it had been formed like hatchet!
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併し概して言ふと、下《しも》がかつた事も、原文が無邪気《むじやき》に堂々と言ひ放《はな》つてゐるのを其儘《そのまま》訳出してあるから、近代の小説中に現はれる Love scene よりも婬褻《いんせつ》の感を与へない。
脚註が亦《また》頗《すこぶ》る細密《さいみつ》なるものである。而《しか》も其の註が尋常一様のものでなく、バアトン一流のものである。単に語句の上のみでなく、事実上の研究にも及んでゐる。例へば Shahriyar 王の妃《きさき》が黒人の男を情夫《じやうふ》にする条《くだり》の註を見ると、亜剌比亜《アラビア》の女が好んで黒人の男子を迎へるのは他《ほか》ではない。亜剌比亜人の penis は欧羅巴《ヨオロツパ》人のよりも短い。然るに黒人のは欧羅巴人のよりも更に長く、且つ黒人のは膨脹律《ばうちやうりつ》が少なくて duration が長い。其の為めに亜剌比亜女が黒人を情夫に持つのであるといふ類《たぐひ》である。現にバアトンが計測した黒人の peni
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