た為に、憾《うら》むらくは所期の点に達し得なかつた。而も十分の一位で中絶して居るのは、甚だ惜むべきことである。
 レエンの訳本――日本へは最も広く流布《るふ》してゐる。殊にボオン(Bohn)叢書の二巻ものは、本郷《ほんがう》や神田《かんだ》の古本屋《ふるほんや》でよく見受けられる――は底本《ていほん》としたバラク(Bulak)版が元々省略の多いものであり、其の上に二百ある話の中から半分の百だけを訳出したもので、随《したが》つて残りの百話の中に却《かへ》つて面白いものが有ると云ふやうな訣《わけ》で、お上品に出来過ぎて了《しま》つて、応接間向きの趣向《しゆかう》は好《よ》いとしても、慊《あきた》らないこと夥《おびただ》しい。お負けに、レエンは一夜一夜《いちやいちや》を章別にした上に、或章は註の中《うち》に追入れて了《しま》つたり、詩を散文に訳出したり又は全然捨てて了つたりして居るし、児戯《じぎ》に類する誤訳も甚だ多いと云ふ次第。
 次にペエン――フランソア・ヴイヨン(〔Franc,ois Vilon〕)の詩を英訳した――の「一千一夜物語」の訳は、旧来のものに比べると格段に優《すぐ》れてゐる。話の数《かず》もガラン訳の四倍あり其の他のものの三倍はあるが、手の届かぬ所が無いでもない。しかし兎《と》も角《かく》好訳であるが、私版を五百部刊行しただけで、遂に稀覯書《きこうしよ》の中《うち》に這入《はひ》つて了《しま》つた。ただ一つ特記すべきことは、巻頭にバアトンへの献詞《けんし》が附いてゐることである。
 バアトンの訳本も、一千部の限定出版で、容易に手に入り難《がた》い。出版当時十ポンドであつたものが、今日《こんにち》では三十ポンド内外の市価を唱《とな》へられてゐるのは、「一千一夜物語」愛好者の為に聊《いささ》か気の毒である。尤も此のバアトン訳の剽竊版《へうせつばん》(Pirate Edition)が亜米利加《アメリカ》で幾つも出来てゐるが、中身は何《ど》うだらうか。
 バアトンの訳本の表題は左の通り。
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A PLAIN AND LITERAL TRANSLATION OF THE ARABIAN NIGHTS ENTERTAINMENTS, NOW ENTITLED THE BOOK OF THE THOUSAND NIGHTS AND A NIGHT 
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